Talk-onetree |一木 聡 satoshi ichiki |sichiki いろいろなデザインについて考えています.
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2013年11月17日
2013年10月26日
伊勢神宮の「常若」
伊勢についての印象は、その清々しさです。
伊勢を好きで何度も通われている方にお話を伺っても清々しさを仰います。
伊勢自体を分析することに興味を持ちましたが
やはり式年遷宮に合わせ常若と言うことを清々しさとともに考えてみます。
伊勢神宮の「常若(とこわか)」という考え。
人工的で限られた命である建築を、限りなく流れていく自然の美しさ
神の生まれ変わりのように永遠を与えていく。
伊勢について印象深い「水」。
水は人に、その流れを見せてくれます。その流れというものは人の
一生、時代の流れにも変わらず脈々と流れるもの。
日本における神様の考え方として自然の中に神は宿るというものが
ありますが、常に清らかに流れる水の流れそのものに「常若」を
象徴化、具現化しているように思えます。
山についても間伐がないと林床に光が届かないのですが
社のために山の樹木を活用するのは同じように思想をなぞらえている
と思います。
あらためて、伊勢を訪れるとき自然と対峙することがメインで
その流れの中に神の社があるということを感じることが出来ました。
日本に数ある社寺仏閣でこのような自然の中にあるべき姿を保っているのは
数少ないかもしれませんが、本来の姿・有様というのはそうあるべきもの
なのでしょう。それに清々しさを感じるのは人本来の感性かもしれません。
都市化高密度化していく現代の中で、
これから「常若」はどのように感じられ、現れていくのでしょうか
2013年7月28日
2013年6月29日
宇治川にて
view from byoudouin uji-city kyoto
uji-gawa(nakasu) uji-city kyoto
kami-gamo shrine uji-city kyoto
宇治は水を感じる場所。。
平等院鳳凰堂は水面に映る姿と対をなし、鳳凰の姿は長閑な空に映え、河の流れさえ聴こえるような穏やかな宇治川を向かいに伸びやかな雰囲気が感じられます。国風文化の象徴として有名な建築であり宴のためのステージの様にもみえます。
宇治川を隔てた宇治上神社は山の中腹にあり奥の院という風情。小さな規模ながらもさまざまな言われや見どころがあり、覆われている国宝建築も神秘的な雰囲気をもっており、宇治という場所で一番深みのある印象的な空間を形づくっていると思いました。
そして、宇治橋の上から眺める景色は素晴らしいと思います。山々の稜線は関西で稀に見られるなだらかなものでそれら一つの山々に身近さを感じます。全体的にしっとりとした印象を受けるのも木々と河が美しく調和しているからであると思います。
最近、この川の景色の中心に位置する中洲の公園にあった桜が市民に十分周知されないまま百本伐採されたという出来事がありました。桜を大事にしてきた場所であったために代替の桜を同数植える事になったようですが、この経緯や結果は象徴的な景観を形づくる桜、心象に深く残る桜という点で大切にされるべきだという判断が出来る事が素晴らしいと思います。川面に映る桜の美しさは話に聞くだけでも容易に想像できます。
駅から平等院、宇治上神社、源氏物語ミュージアム、宇治橋までは素敵なストーリーのようになっていて宇治上神社から源氏物語ミュージアム、平等院への道ひとつずつが印象的で歩行者のために大切にされていて世界遺産登録されていることもうなずける散策路です。
日本の風景において調和ということが客観的に考えにくいことは周知のことだと思いますが、外国の人が日本を訪れているのを見たり聞いたりすると、歴史やストーリーを日本人も驚くほど熱心に調べている事があり、この国が本来持っている資質に気付かされます。
例えば、藤原氏の宮廷文化にまつわる美しさや切なさ。川を挟んで結ばれぬ愛。それらだけでも桜に投影させる意味を十分にもっているのではないでしょうか。この宇治がもっているストーリーはインパクトはないもののじわりじわりと日本人の心に染みてくるように思います。
そして、これからは崖線も含めた川の周囲でうまれ、育まれる文化の営みを注意して見てみたいと思いました。
uji-gawa(nakasu) uji-city kyoto
kami-gamo shrine uji-city kyoto
宇治は水を感じる場所。。
平等院鳳凰堂は水面に映る姿と対をなし、鳳凰の姿は長閑な空に映え、河の流れさえ聴こえるような穏やかな宇治川を向かいに伸びやかな雰囲気が感じられます。国風文化の象徴として有名な建築であり宴のためのステージの様にもみえます。
宇治川を隔てた宇治上神社は山の中腹にあり奥の院という風情。小さな規模ながらもさまざまな言われや見どころがあり、覆われている国宝建築も神秘的な雰囲気をもっており、宇治という場所で一番深みのある印象的な空間を形づくっていると思いました。
そして、宇治橋の上から眺める景色は素晴らしいと思います。山々の稜線は関西で稀に見られるなだらかなものでそれら一つの山々に身近さを感じます。全体的にしっとりとした印象を受けるのも木々と河が美しく調和しているからであると思います。
最近、この川の景色の中心に位置する中洲の公園にあった桜が市民に十分周知されないまま百本伐採されたという出来事がありました。桜を大事にしてきた場所であったために代替の桜を同数植える事になったようですが、この経緯や結果は象徴的な景観を形づくる桜、心象に深く残る桜という点で大切にされるべきだという判断が出来る事が素晴らしいと思います。川面に映る桜の美しさは話に聞くだけでも容易に想像できます。
駅から平等院、宇治上神社、源氏物語ミュージアム、宇治橋までは素敵なストーリーのようになっていて宇治上神社から源氏物語ミュージアム、平等院への道ひとつずつが印象的で歩行者のために大切にされていて世界遺産登録されていることもうなずける散策路です。
日本の風景において調和ということが客観的に考えにくいことは周知のことだと思いますが、外国の人が日本を訪れているのを見たり聞いたりすると、歴史やストーリーを日本人も驚くほど熱心に調べている事があり、この国が本来持っている資質に気付かされます。
例えば、藤原氏の宮廷文化にまつわる美しさや切なさ。川を挟んで結ばれぬ愛。それらだけでも桜に投影させる意味を十分にもっているのではないでしょうか。この宇治がもっているストーリーはインパクトはないもののじわりじわりと日本人の心に染みてくるように思います。
そして、これからは崖線も含めた川の周囲でうまれ、育まれる文化の営みを注意して見てみたいと思いました。
2013年6月9日
2013年5月3日
2013年4月21日
瞑想の庭… 横浜ビジネスパーク Mario Bellini-Garden
Mario Bellini-Garden hodogaya-ward yokohama.
マリオ・ベリーニはイタリアの建築家で、日本にいくつかの空間や建物を残しています。五反田の東京デザインセンターや八ヶ岳のリゾナーレなどが有名です。
この横浜ビジネスパークの中心にある公共空間。
学生の時、横浜の天王町というところに友達が住んでいたことでこの空間に初めて出会いました。
建築というものを意識していない時期でしたが、ここは日常から離れた異空間という印象がありました。夜によく訪れていたこともあり、印象的なライトアップとともに水面を中心とした空間は静寂に包まれており、今思い返すと社寺仏閣に訪れるのと似た静かな空間体験を得られるのでこの場所を好んでいたように思います。
不思議なもので、この場所に来ると時間があっという間に過ぎていくような感覚でした。朝までこの場所にいたこともありました。この場所は周りが(良い商店街のある)住宅街でこの付近だけ近代的な印象です。超高層のビルが周りを囲んでいる中で周辺環境との調和を図る上で公共空間に何かの潤いを考えこのようなデザインを考えたのだと思います。
デザインはトラバーチンをコンクリートに埋込み塊の分節や構成を意識させながら空間が少しずつ歳を取っていくのに調和するようなスケール。いつも向こう側に違う形が見えたり違う色との調和があったり。
象徴的な公共空間というのは世界中にたくさんあると思いますが、日本では活用できる空間の余裕が少ないので、印象に残る象徴空間は少ないように思います。
マリオ・ベリーニの祖国イタリアはローマのスペイン階段やフィレンツェのベッキオ橋、シエナのカンポ広場やベネチアのサンマルコ広場などは象徴的以上に国の代名詞ともなるような空間となっています。その豊かな公共空間の伝統を日本のビジネスパーク内に円をモチーフにしながら表現したのだと思います。
日本には昔からの象徴空間があったにせよ更新されたりして消えてしまっていたり、多文化という概念から成長が滞っていたりと、空間的な余裕以外にもいろいろ理由はあると思います。日本橋や変わろうとする渋谷の交差点も楽しい賑わいが無くならないようにとは思います。
余裕や遊びといわれる空間でもいかに人の心象に大切なものかをこれからも身近なところから考えたいなと思っています。
2013年3月30日
2013年3月9日
2013年3月2日
2013年2月12日
2013年2月11日
ロバート・キャパ/ゲルダ・タロー 二人の写真家 Two Photographers: Robert Capa Centennial / Gerda Taro Retrospective


Robert Capa / Gerda Taro ©ICP
写真の展覧会はあまり行く機会がないのですが、興味を持ち出かけました。
結論から言うと、写真のすばらしさ云々のことは余りよくわかりませんが、二人のカメラマンの「視点」を知ることが出来た展覧会でした。
二人は、戦場という場所を主に撮影場所として活動し、公私ともにパートナーとして認め合った仲。有名であるキャパ(フリードマン)と一時キャパとして写真を掲載せざろう得なかったタロー、その二人の若さみなぎる活動記録や視点の違いを表現してくれた展覧会。
沢木耕太朗氏によるキャパの写真「崩れ落ちる兵士」への新説も番組で見、多少の予備知識を入れて見に行きました。
まず、タローの写真については正方形に描かれるローライフレックスを用い、スペインの戦場の広い空を背景にひとが真ん中に配置するような構成的でどこか爽やかな写真から戦争のまっただ中にいくにつれ被写体の持つ感情や背景を描写するようなものへと変わっていく。
構成的な写真はアンリ・カルティエ・ブレッソンとも違う個性的なものであったのに、徐々に「キャパ的」な写真、報道的視点へと変わっていく。この視点の変化が展覧会中でもっとも興味を持ちました。
共和国軍の多国民による「集い」と同様に最初は協同という形でキャパを名乗っていた二人でありながら、先述の移り変わりにはタローの献身的な心が多きを占めていたのではないでしょうか。キャパという、自分以上にフリードマンが立派な存在へとなっていくことに、展覧会の資料からはタローのスタンプのある(キャパではない)写真も残っているものの商業的背景から「キャパ」の名前を冠した。という事実をも飲み込んで戦場へと赴いていたのではないでしょうか。時に自分一人で残り、赴くこともあった状況下には、この「心」がタローに汚れない写真を撮らせていたのではないかと思います。
また、タローは生活(家族、友、群)を背景に戦争の恐ろしさをとらえていたように感じましたが、キャパの場合にはひとの感情、想いが見て取れる、多くの意味での「動きのある」写真特徴があるように感じられます。そこにはひととひととの「つながり」「絆」が人生においてもっとも大切であったと考えるタローとひとの動きを見逃さないように捕らえたフリードマンとの大きな違いがあるようにも感じました。
そして、戦争という緊急事態の仲で「絆」こそがもっとも強く心に秘め、強くあるために必要なものであろうと考えさせられるとも感じました。
そして、フリードマン(以下、キャパ)の写真ですが、はじめは低いアングルで写すことで人の表情であったり、なにより子供の戦争への参加というものをつかんでいた写真でしたが、時間が移るにつれ、戦争とその周辺をも広角な場面を全体的に捕らえた「事象的な」写真が多くなっていくように感じました。
これは、自らの存在を報道写真家としてある姿を持ちながら、ポートレイト的なものよりもニュースやな動画的なものとして感覚的に捕らえたかったのではないでしょうか。
こうして、タローと生きた時期に感じられたひとの動きというよりは報道的側面が多くなるキャパの写真であったように思いますが、戦争においては「乱射的に、動的に」緊急事態を捕らえ多くの動きの一瞬を切り取ることに集中していたと感じ取れます。時には勝者と敗者それぞれの側面を鮮明に映し出したり、戦争という中での感情の揺れや動きが市井のひとにまで現れていたことを表現しています。上の写真でもわかるようにライフルの代わりにカメラのファインダー越しの闘いがそこにはあったと感じさせます。
キャパが1954年、来日したときに言葉を残しています。
「私はネガいっぱいにギリギリ撮るより、幾分余裕をつけて写し、なるべくたくさん周囲の雰囲気を入れようと思っている。
「私は日本の桜や、フジヤマが美しいのはよく知っている。私は桜の花よりもその下で生きている日本人の人々の方がほうが魅力だ」
キャパは情熱が昔ほどにはなくなっていた、そして、日本は写真のパラダイスだと言い、自らの写真家としての情熱を傾けられるような再生を遂げ、滞在中に同じアジアであるインドシナの戦場写真のライフ誌からの急なオファーを受け戦場でなくなります。
キャパの写真にひとの写真が多いのはひとの起こす事象とその本質を写真の中にとどめようと必死であったからではないでしょうか。それには戦争も平和もなく人が生き、活動するという普遍の現実の中で生きる自らの記録であり、生きる証であったと思われます。
そして、二人の写真は感じることの多くを残していると思います。



