Talk-onetree |一木 聡 satoshi ichiki |sichiki いろいろなデザインについて考えています.

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2012年7月23日

真珠の首飾りの少女

ファイル:Johannes Vermeer (1632-1675) - The Girl With The Pearl Earring (1665).jpg
  © wikipedia Girl with a Pearl Earring Johannes Vermeer 1665

この画、今まで日本には三回ほど来ているんですね。
前回、都美で開催されたフェルメール展に感動してまた足を運びました。

鑑賞している方々の意見を伺うと、睨まれたとか挑戦的とか意外な意見が聞かれました。
あまりに人が混んでいて圧迫されたためでもあるのでしょうが、印象の強さによるものも
あるのではないのでしょうか。

近くに飾られていたレンブラントの肖像画との差異が明確で、穏やかな現在の心情を
詠うかのように描かれ技巧の粋を尽くして描かれたという画との「強さ」の違い。

その印象は画であること独自の光の強さであることに気づきます。
谷崎潤一郎の陰翳礼讃の金蒔絵に関する記述のように闇の中に存在する鮮烈さ。
外光が届ききらない、ベネチア・ドゥカーレ宮殿の大議会の間の重厚な天井画。

窓際の一風景を印象的な光で抜いている様子のフェルメールの画とは違い、光によって
「浮かび上がる」肖像を描いているようです。

そういう意味ではラピスラズリの印象もあり鋭さすら感じる人がいてもおかしくないような。
「~のモナリザ」などと意味深げにいわれてもおかしくないような。

しかし、至近距離でじっと見ていると、鋭さよりふわっとした筆遣いの感じがして、私には
とても優しい顔に見えましたよ。

2012年7月14日

横浜 海岸通り| yokohama bayside

  三枚とも「スタジオ・ムンバイ展 PRAXIS/ Studio Munbai:Praxis」 より

2012年7月12日

鎌倉 長谷のあたり |kamakura hase. smallstreet

2012年7月5日

~をシェアする、ところづくり。



空間をシェアすると言うことはロスを少なくできる現代ではイニシャルを抑えられる必然的な手法なのかもしれない。たとえば漫画喫茶やカラオケなんかもそう。


昔から共用すると言うことに対してアジアの人たちはきわめてあたりまえのように受入られてきたように思う。三連長屋や隣に接した町屋などもそう


西洋ではどうだろうか。システムとして効率良くするためのシェアはあるものの壁を作ったりすることのイメージが強い。石や広い庭の家のイメージが強いせいだけであろうか


西洋のシェアの形には自治体の政治から戸先の小さな庭に至るまでとても構築的なものを感じる。元々まちやひとの生活というのは完成されていて、それを自分なりにどう過ごすかという。日本で言えば世界遺産に住むような


アジアや日本ではそれはボーダーが無く新陳代謝早く生まれては廃り新しくなりの繰り返しであったのではないだろうか。もちろん原風景というものはある。しかしめまぐるしくスタイルは変わっている


最近では先細りしてくような社会のイメージ(年金のせいか)が感じられるが、きっとシェアすることは特に大きな(法律的な)規則があるわけでもなくて、たくさんのひとが何かを共有したいという気持もシェアだろうし、そこには感動がある


新陳代謝を高めていくのであればノマドなどもこれからはスタイルとしてあり得る話だし、会社勤めの中で自分なりの自由を求める姿に近いかもしれない。でも、会社というものがベクトルであるのであればシェアというのはサークルのようなものであるから基礎構造が全く違う


ひととシェアすると言うことは風通しを良くすると言うことと同義であろうか。最近団塊世代の人たちでもひとと関わりを深くもつようなことにチャレンジするケースをよく見る。会社で築いたものとは違うコミュニティ。


子育て世代もそうであろうが様々な年代が色々なところで広い視野を持ちたいと思っている。共有したいと思っている。まちづくりはひとづくりと誰かが言っていたがまちという形ではなく、シェアづくり、というか「ところづくり」を考えたいなと思う。


(ツイッターから転載)