空間をシェアすると言うことはロスを少なくできる現代ではイニシャルを抑えられる必然的な手法なのかもしれない。たとえば漫画喫茶やカラオケなんかもそう。
昔から共用すると言うことに対してアジアの人たちはきわめてあたりまえのように受入られてきたように思う。三連長屋や隣に接した町屋などもそう
西洋ではどうだろうか。システムとして効率良くするためのシェアはあるものの壁を作ったりすることのイメージが強い。石や広い庭の家のイメージが強いせいだけであろうか
西洋のシェアの形には自治体の政治から戸先の小さな庭に至るまでとても構築的なものを感じる。元々まちやひとの生活というのは完成されていて、それを自分なりにどう過ごすかという。日本で言えば世界遺産に住むような
アジアや日本ではそれはボーダーが無く新陳代謝早く生まれては廃り新しくなりの繰り返しであったのではないだろうか。もちろん原風景というものはある。しかしめまぐるしくスタイルは変わっている
最近では先細りしてくような社会のイメージ(年金のせいか)が感じられるが、きっとシェアすることは特に大きな(法律的な)規則があるわけでもなくて、たくさんのひとが何かを共有したいという気持もシェアだろうし、そこには感動がある
新陳代謝を高めていくのであればノマドなどもこれからはスタイルとしてあり得る話だし、会社勤めの中で自分なりの自由を求める姿に近いかもしれない。でも、会社というものがベクトルであるのであればシェアというのはサークルのようなものであるから基礎構造が全く違う
ひととシェアすると言うことは風通しを良くすると言うことと同義であろうか。最近団塊世代の人たちでもひとと関わりを深くもつようなことにチャレンジするケースをよく見る。会社で築いたものとは違うコミュニティ。
子育て世代もそうであろうが様々な年代が色々なところで広い視野を持ちたいと思っている。共有したいと思っている。まちづくりはひとづくりと誰かが言っていたがまちという形ではなく、シェアづくり、というか「ところづくり」を考えたいなと思う。
(ツイッターから転載)
