私にはものに対して好みの大きさがあります。皆さんはどうでしょうか。例えば食べもの。果物や野菜でもこのくらいの大きさというのが頭に浮かんで、感覚的にそれをつかんでしまう。冷凍食品やパッケージされたお菓子なんかもそうかもしれません。
最近つくづく考えるのは携帯とカメラ。携帯は話すのに適した大きさというのもありますが、最近では話すことの他に端末としてのアクションを行う役割があるために大きさというのが微妙なところもある。
ある影響から小さな携帯を今でも利用していますが、通話とメールに関していえばそれで十分だし非常に便利。感覚的に電話であれば持って話していても苦痛にならないというのは大きいと思う。
そして、カメラ。最近はミラーレスなど新しい規格が新しいユーザーを開拓していて興味深いですが、名刺サイズの大きさやトイデジなんかのように面白さがあるものとは違い、カメラの大きさって云うのは手のひらにどんな風に収まるかっていうこと。
カメラは手のひらに収まる大きさでなおかつ、日常から想いまでを切り取れるものがいい。そうすると普段から持ち歩くのにはカメラたる大きさのルーツがライカ的な大きさなのかもしれない。レンズというのも素晴らしいけれどずっとオンカメラの状態の方が楽しい。
空間と領域。これらについても何かしらのことがいえるのではないだろうか。食べるために望まれる大きさ。寝るために望まれる大きさ。生活には自然的な感覚に近い空間の大きさがある。スケールという洗練した考え方で人間は空間をとらえてきた。
空間には空気の流れがあってそれはどこ彼処に続いていく。中だと思っていても外であったりその逆もある。庭だと思っていてもそこは中と呼ぶにふさわしかったりもする。借景を飛び越えて、意識でそこに存在することが出来る。時にステイタスに感じる人もいるだろう。
たとえば森の中に家があって、その人の空間の大きさというのがボンヤリしてしまう。しかしながらそれが森に求められる空間の大きさであって適切だからひとはそれを求めようとする。得られる清々しさと共に。
もっと大きく考えてみれば地球の大きさだってある。自分の歳での気持ちですが、昔は宇宙と同様に地球は大きく無限のようでミステリアスだった。でも今はずいぶんと身近で大陸は一つの領域としてあり、山奥のことまでイメージが出来るようになった。
どうやら生きていく上での体験や経験、そして期待のようなものに関して「大きさ」というのは自分の中に蓄積されていったり、消化されていったりしていくようだ。つまり大きさというのは人それぞれにあるものだということ。
それぞれの人に大きさがあってそれによって、緊張感や開放感、閉塞感や高所感などが存在しているのであれば大きさというのは観念的なものではなく、感覚的なものだということが合っているのかもしれない。
しかしながら大きさというのは未知への想いというものをはらんでいるように期待せずには居られない。もしかしたら自分の身の回りに望むべき大きさがあるのかもしれない。
(ツイッターより転載)